元日本テレビ解説委員で、現在は各メディアでコメンテーターを務める岸田雪子氏が、子育て周辺の話題を取り上げる新連載「岸田雪子のBloom Room(ブルームルーム)」。親子の笑顔の "つぼみ" を花開かせる小部屋です。今回は、"コロナ観" について考えます。
わたしの友人Aの話です。上司と同僚2人に食事に誘われた時のこと。Aは高齢の両親と同居しているため、新型コロナウイルスに感染しないように人一倍注意を払い、会食を避けていましたが、お世話になった先輩の誘いを断るわけにもいかず、少人数ならと出かけたそうです。ところが、同僚が予約した店に着いてみると、通された席はテーブルが小さく、隣との距離が近く、窓もない。Aは食事中も話す時はマスクで口を覆っていたそうですが、同席する上司たちはマスクを外し、コロナ前と変わらない様子で酒が進んでいたそうです。
後日Aは「久しぶりに会ったのに、全然楽しくなかった。もう一緒に食事に行きたくない」とため息をついていました。Aと上司たちの間に、コロナ観のズレがあったことが、食事会をきっかけに明らかになってしまったようです。
■マスク外す?出かける?コロナ観のズレが生まれる理由
「コロナ観」のズレは、2つのポイントで生まれることが多いようです。1つは、「環境の差」。もう1つが「意識の差」です。
環境の差は、例えば「高齢の家族がいる」「ひとりで子育て中なので、自分が病気になったら子どもの預け先がない」といった、家庭環境に起因するもの。あるいは、「介護施設で働いている」「病院で働いている」「自分の代わりがいないので、休むと周囲に多大な迷惑をかけてしまう」などの職場環境によっても、「感染リスクを強く感じる」コロナ観が生まれやすくなるでしょう。
こうした環境の差も影響して「意識の差」は大きくなる場合があります。例えば、マスクの重要性への意識です。「マスクは自分を守るためにも、相手を守るためにも必要」と考えている人にとって、「マスクをせずに大声でおしゃべりする人」は理解しがたく、遠ざけたい心理が働きます。あるいは、相手が介護関係の仕事をしているのを知っていながら、「カラオケパーティーに行こう」と言えば、その誘いそのものが、人間関係の断絶を生んでしまうかもしれません。政府が「GO TO」と呼びかけるようになってからは、この「意識の差」は、より顕在化しているように感じます。
■断絶か、歩み寄れるか、の境界線
そもそも、価値観はみんな違うものです。ですが、感染症を相手にすると、「もしかしたら命の危険に直結するかもしれない」から、やっかいです。
しかし、よくよく考えてみれば、「コロナ観が違う=断絶」というのも、やっぱり寂しい。断絶の一歩手前に「歩み寄る」道はないか、考えたいものです。
「歩み寄り」の一歩目は、「相手への理解」です。コロナ観のズレを感じたら、先述した相手の「環境」と「意識」に目を向けてみてください。「医療に携わっているわけでもない、高齢者と同居しているわけでもない相手」であれば、さほど「リスク意識」が高くなくても、仕方ない、と思えるかもしれません。健康意識は、高い人ほどより新しい情報を仕入れて意識が高くなりやすい一方、関心のない人は情報に触れることすら少ない、というギャップがそもそも生じやすいのです。
相手への理解の次は、「自分をわかってもらう」ステップです。冒頭の友人Aの場合なら、「私は高齢の母と同居しているので、感染対策がしっかりした店とテーブルを私が選びますね」と先に提案してみてもよいかもしれません。
「自分のリスク意識を理解してもらえない時に気まずいから、言いたくない」という人は、個人情報を言わないまま、お店選びを率先してみたり、「〇〇さんが言っていたことなんだけれど…」と、第三者の情報を借りると、理解してもらいやすいこともあります。
それでもズレが解消できない時は、「おあずけ期間」を設けるのも一案です。コロナ禍のトンネルは永遠ではありませんから、ズレに直面しそうなことは、先延ばしにしてみてもいいのです。
大事なことは、無理をしてストレスをためないことです。あなたの価値観は、あなたのものとして大事にしながら、無理なく「歩み寄れるところ」を探してみてください。