2つ以上の異なる意見があるときには、当然それぞれの意見の持ち主が見ているもの、知っている情報にズレがある。AさんとBさんがいる場合、Aさんが見ていること知っていることとBさんが見ていること知っていることは当然違う。しかしAさんは「自分はBさんが知らないことを知っている」と思っている。その前提で「だからBさんより自分が正しい」と思ってしまう。逆も同じ。
お互いにそれをやると話がかみ合わない。お互いにバカだと思う。意見が違うとき、まずお互いにどういう前提をもっているのかを確認する必要がある。そうすれば、お互いに論理的に間違ったことを言っていないことがわかる場合がほとんど。そうすれば、お互いに視野が広がり、もっている情報も増える。さらに議論をすれば新しいアイディアが出てくる。お互いの思考も深まる。
安保にしても原発にしても、すべての情報を議論の俎上にあげるということはあり得ない。正確に現状を認識できる人などいない。国家の最高レベルの情報を扱う人達であっても。つまり「誰も本当のことはわからない前提」に立って議論しなければならない。でも「知ったつもりの人」がいると、議論が雑になる。雑になるというより、議論の質ががくりと下がる。それが複数いると、お互いに「バカ」と言い合う子どものケンカのような形になる。
「誰も本当のことはわからない」のだから、現状分析だってあてにならない。「部分的にしか見えていない真実」を元にして論理的思考力などを試すから、人間は理路整然と間違えてしまうことがよくある。あてにならない現状分析をもとに損得勘定をするよりも、「自分たちがどうありたいか」を考えることのほうが有意義だ。特に大きな決断ほど、見えない部分が大きいわけだから。
そもそも人間の決断の善し悪しは、決断した時点の情報量や論理的思考力が決めるのではない。決断したあとのたゆまない努力が、結果的にその決断を良いものにしてくれる。決断した時点では善い決断も悪い決断も存在しない。
人間は情報に振り回される。でもややこしい問題を考えているときこそ、頭の中を真っ白にして、自分がどうありたいかと考えることが、最善の決断をもたらすことも多い。
ちなみに、私は「知ったつもりの人」が大の苦手だ。相手が自分とは別のところを見ている可能性、相手が自分とは違う情報を持っている可能性に気づかぬまま、自分の視野の中にある状況と自分の手の中にある情報だけで物事を判断し、「わからないやつがおかしい」という口調をする人が苦手だ。テレビで見ていても虫酸が走る。といって私自身もときどきやっちゃってるとも思う節がないわけではないのだが。ごめんなさい。
(おおたとしまさ)
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