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世界中のスポーツマンから支持を集めるスポーツブランド、「アディダス」と「プーマ」。実は、それぞれの創業者は兄弟で、もともとは一緒にシューズブランドを経営していたことを知っていましたか? 今回はそんな両ブランドの確執の歴史を振り返ります。
■ふたりで始めたシューズブランドは好調! 一方で兄弟間の溝は深まっていった……
アディダスの創業者であるアドルフ・ダスラーは、1920年、ドイツのバイエルン州で母の経営するランドリー店の一角を使って靴の製造業を始めました。のちに、プーマの創業者であるアドルフの兄・ルドルフも経営に加わるようになり、1930年代にシューズメーカー「ダスラー」が設立されます。
兄・ルドルフが営業、弟・アドルフが製造を担当し、販売された靴は頑丈で、ドイツのスポーツマンの間で大人気になりました。1936年のベルリンオリンピックでは、シューズを提供したアメリカのジェシー・オーエンス選手が4種目で金メダルを獲得。これによってダスラーのシューズは一躍知名度を上げ、業績をさらに伸ばしていきました。
ですが、ヒトラー政権に対する考え方の違いによって兄弟仲に決定的なヒビが入ることになります。第二次世界大戦が始まると兄・ルドルフは徴兵されますが、弟・アドルフはナチスの党員となることで仕事を獲得し、徴兵を免れたのです。戦後、兄・ルドルフが戻ってくると、兄弟の関係は修復不可能なまでに崩壊していました。1948年、ダスラーは解体されてしまいます。
1949年、弟・アドルフは、自分のニックネームの“アディ”と姓の“ダスラー”を組み合わせた「アディダス」を設立。兄・ルドルフはネコ科の肉食獣“ピューマ”から取った「プーマ」を設立しました。それぞれの会社は町内を流れる川を挟んだ場所に位置し、旧・ダスラー社の従業員たちは、どちらかについていくのかの決断を迫られました。
■別れたあとも対立……兄弟関係が修復されないまま天国へ旅立ったふたり
兄弟の対立は周囲の人まで巻き込んでいきました。地元ではみな、お互いのシューズを見て相手が“アディダス派”か、“プーマ派”かを確認しないと話が始められないほどに影響力が大きくなっていたそうで、やがて住民たちの靴を確認する仕草から“首を曲げた町”と呼ばれるようになったとか。
会社が大きくなるにつれて、二者の争いはスポーツ業界をも巻き込みました。1954年のスイスで開催されたワールドカップでは、参加選手がみな「アディダス」のシューズを履いていたことで、「アディダス」の人気は高まります。ですが、1968年のメキシコシティーオリンピックにおいては、「アディダス」だけでなく「プーマ」も同じように選手のスポンサーにつき、プロモーションを被せて対抗しました。伝説的スター選手であった“ペレ”の専属契約を巡って、“お互いペレには手を出さない”という協定を結んだ、なんてエピソードも有名です。
結局、ふたりはお互いに一歩も譲らず対立したまま天国へ。ふたりが亡くなってからは、会社を継いだ息子たちも争っていたようですが、現在は両社ともダスラー家との繋がりを絶っているそうです。
――少々後味が苦いですが、現在のアディダスとプーマはイベントなどを通じて、友好関係であることを公に証明しているようですよ!